コロナ禍と蒙古襲来に

ヒカルちゃんが来ました。
魚など~~ 



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「随想録」を読みながら】コロナ禍と蒙古襲来に見る「失敗の本質」
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「永仁の徳政令」の結末

「一味散々」と記憶した1333(元弘3)年の5月22日、鎌倉幕府は滅亡する。干潮を利用して海側から攻め込んだ新田義貞に追い詰められた14代執権北条高時の一族郎党870人余りは、菩提(ぼだい)寺である東勝寺に立てこもり、寺に火を放ったうえで自害して果てた。鎌倉市小町のフェンスで囲まれた東勝寺跡の奥には、自害した一族郎党を弔うためにつくられた「腹切りやぐら」と呼ばれる横穴式の墳墓がある。

完璧な政治体制など存在しない。危機にひんしたときには英知を結集し、ベターと考えられる選択をして乗り越えてゆく以外に、政治体制を延命させる道はない。それも限界がある。体制そのものがはらむ矛盾や弱点があらわとなっていつかは崩壊する。鎌倉幕府もそうだ。

 1274年、81年の2度にわたる元寇は、土台をむしばまれ滅亡に向かっていた鎌倉幕府の背中を押したにすぎないといえる。もちろん、蒙古軍を迎え撃った8代執権北条時宗と御家人の奮闘は真に称賛すべきことではあるが、蒙古軍撃退後に残ったのは、自腹で戦にはせ参じた御家人たちの窮乏だった。国内の戦いならば、幕府は敗者の土地を奪い、軍功のあった御家人に恩賞を与えることができるが、これが海外の土地ではどうしようもない。

当時、西日本を中心に貨幣経済が浸透し、金融業者が台頭しつつあった。御家人たちの多くは、土地を担保に金融業者から戦費を調達して蒙古軍を迎え撃ち、「神風」の助けもあって撃退に成功する。しかし幕府には恩賞を与える余裕などなく、戦功があったにもかかわらず、金融業者に負債を返すため領地を手放さざるを得なくなった御家人も多かった。御家人の幕府に対する不満は募ってゆく。こうして土地を介した「御恩と奉公」という幕府と御家人の関係が崩れ始める。畿内周辺では体制に反抗する「悪党」の活動が目立つようになり、不穏な空気が社会全体を覆う。そして1293年5月19日に発生した鎌倉大地震が追い打ちをかける。建長寺をはじめ多数の寺社が倒壊し、死者は2万人超えたという。

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